masuse's blog

エッセイなどを書いております。

[エッセイ]説教と自我

 相手がどのように説教するかで、その人の自我のレベルが見えてくる。

 その人の説教に、矛盾が多く見受けられる場合、その人の自我は、中期の自我である可能性が高い。つまり、その人は、自身の信念・規範に基づいた説教をしていない。その人の説教はあくまで、攻撃のためのツールだ。つまり、モラハラのためのそれ。したがって、その人の説教や言動には、矛盾が多く目立つ。

 その人の説教に、一貫性が感じられる場合、その人は後期の自我以上である可能性が高い。つまり、その人は、自身のなかの信念・規範に基づいた説教をしている。したがって、その人の説教・言動には、一貫性がある。それらには、あまりブレがない。

 ちなみに、後者が、後期の自我か、成熟した自我かを見分けるには、その人が、怒りを露わにするか (あるいは、それを抑制しているか) 、していないかで、判断ができる。後期の自我の人には、抑圧があり、他者への投影があるので、その人の説教には、怒りや憎しみといった、ネガティブな感情が含まれやすく、一方、成熟した自我の人には、それらがあまりないからだ。

 余談だが、私は、人間は最終的に、信念や規範といったものよりも、持って生まれた良心を拠りどころに生きたほうがいいのではないか、と考える。なぜなら、その信念や規範というものは、結局は、両親や社会のそれらを内面化させたものに過ぎないからだ。そして、両親も社会も、神ではない。つまり、それらは真理ではない。(その一方で、「社会の秩序を乱さない」という目的で、社会的なモラルやルールに従うことは必要だろう)

 ニーチェは、善悪を超えた先の道徳に従え、と主張したが (それらは、高貴さと誠実 (友愛) さ、勇敢さなどだ) 、その道徳とは、持って生まれた良心を発展させた先にあるのではないだろうか? つまり、それもある種の自己実現なのだろう。

 自分のなかの、その良心を感じ取るには、神経症的であっても、離人症的であってもいけないだろう。