masuse's blog

エッセイなどを書いております。

2024-07-01から1ヶ月間の記事一覧

[エッセイ]離人症からの回復について

私には以前、好きな人がいたのだが、その人から振られてしまった。 私はこれまで、失恋は (当然だけれども) 何度か経験してきた。しかし、その失恋は、これまでのどのそれとも比較にならないほどのダメージだった。私は立ち直ることができなかった。仕事をや…

[エッセイ]神経症からの回復について

私は以前いた職場で、ある先輩のことをどうしても許すことができなかった。 それは彼にはADHD的な特性があったからだ。彼は仕事ができなかった。心療内科に行けば、きっとその診断が下されただろう。 一方で、私自身はADHDの診断が下された。しかし、そのこ…

[詩]キリスト

彼もまた、十字架を負う。 しかしそれは、原罪ではない。 あるいは、罪ですらない。 分散されていたそれが、一極に集中する。 それは、彼の許へと集まる。 彼は死ぬ。メタフォリカルに。 しかし、キリストは復活した。 彼もまた、甦るだろう。やはりメタフォ…

[エッセイ]説教と自我

相手がどのように説教するかで、その人の自我のレベルが見えてくる。 その人の説教に、矛盾が多く見受けられる場合、その人の自我は、中期の自我である可能性が高い。つまり、その人は、自身の信念・規範に基づいた説教をしていない。その人の説教はあくまで…

[エッセイ]仏教とは何か

仏教とはタナトス的な指向性を持つものだ、と私は考える。つまり、無へと向かうそれを持つもの。煩悩を断ったり、執着を手放すといった教えを持つからだ。 あらゆる煩悩、執着を手放していった先に残るのは無そのものだ。おそらくニルヴァーナと呼ばれるもの…

[エッセイ]三島由紀夫とナルシシズム

三島由紀夫はナルシシストだった。 一応ことわっておきますが、私はナルシシズム自体は否定しない。それも、人生を楽しむための一つのツールとして活用していけばいいと考えるからだ。 ただし、自己受容が必要だと考える。実際の自我を抑圧し、理想の自我像…

[エッセイ]道について

ある知人がいる。 その人はあまり心を開かず、どこかシニカルなのだけど、二度ほど一緒にお酒を飲む機会があり、そのときに「自分は車掌になりたかった」と溢していた。学生時代には、駅員のアルバイトをしていたとのこと。 しかしその人は、実家の家業を継…

[歌詞和訳]伊藤君子『Follow Me』

Follow me 私を追ってきて To a land across the shining sea 光り輝く海の彼方の地へと Waiting beyond the world we have known 私たちの知るこの世界の彼方を待ちわびながら Beyon the world the dream could be あの夢が生きることのできたこの世界の彼…

[エッセイ]他者の価値観に追従すること、あるいは反発すること

他者の価値観に追従することは言うまでもないが、それに反発することも、自分の価値観で生きているとはいえない。 私の知人には医者がいる。そして、その人の弟は、カタギではないような人になっている。二人の母親は、いわゆる教育ママだった。両親とも教師…

[エッセイ]依存心の反動形成は、あなたをどこにも導かない

依存心の反動形成は、非生産的な行為だ。そこからは、何も生まれない。 通常、人は子供時代に、愛着人物 (子供時代の重要な大人。多くは母親) から愛されることで、自分のなかの依存心を解消させる。正確には、その依存心を愛されたという体験・記憶で相対化…

[エッセイ]人間関係の幸福度の上げ方について

人間関係の幸福度の上げ方について、私は個性化 (自己実現) をしている人たちと関わることが、一つの方法だと考える。 逆に言えば、個性化をしていない人たちとは、可能なかぎり距離を置くことだと。 個性化をしていない人は、他者より秀でることで、自身を…

[書評]村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』は、超自我 (内在化された規範) を打ち破ることで、実際の感情 (感じ方) を取り戻す話なのだと、私は思った。 その物語に出てくる「根源的な悪」とは、「実際の感情を否定する超自我」だと私は解釈した。 主人公は、壁抜…

[エッセイ]サルトルと、歪んだ超自我

超自我というものがある。親や社会の規範を自身に取り入れたものだ。つまり、内在化された規範だ。 その規範が歪んだものであった場合、その人の超自我も歪んだものになる。たとえば、「存在するな」「お前であるな」、あるいは「奴隷であれ」というメッセー…

[書評]村上春樹『木野』

村上春樹の『女のいない男たち』に収録された「木野」という短編は、離人症から回復する男の物語だと、私は思った。 主人公である木野は、出張から自宅に戻ったとき、仲の良かった同僚と妻が不倫しているのを目撃した。 彼はそのまま自宅を出て、そこには戻…

[書評]プルースト『失われた時を求めて』

『失われた時を求めて』の冒頭で、主人公が紅茶に浸したマドレーヌを口にしたとき、言いしれぬ歓びを覚える描写がある (それは「プルースト効果」と呼ばれている) 。 私は、このとき主人公の離人症が一瞬、解けたのだと思った。子ども時代に食べたマドレーヌ…

[詩]失われたもの、損なわれたもの

私の愛は、かつての習慣だ。 その名残だ。 愛は、私から切り離された。 それは、去勢された雄犬が、 かつての習慣で、 雌犬の上に跨るようなもの。 それは、愛に基づくものではない。 私はうつろな人間。 私は空っぽ。 私に唯一、救いがあるとすれば、 愛が…

[エッセイ]良心について

心理学者・哲学者のケン・ウィルバーは、人間の自我の段階を、四つに分けた。すなわち、初期の自我、中期の自我、後期の自我、そして成熟した自我だ。 初期の自我は、まだ規範という概念を知らない段階を指す。動物でいえば、猫の自我に相当するだろう。 中…

[エッセイ]親を赦すということ

親を赦すということが、イコール、自身のシャドウの受容になる、ということがある。 シャドウとは、ユングの用語で、抑圧された自身の自我の側面のことをいう。 たとえば、子ども時代に、父親の暴力を憎んだとし、それを赦せなかったとする。そして、「自分…

[エッセイ]超人と、善悪の彼岸について

ニーチェは、超人とは、善悪を超えた存在だと言う。道徳を超克した者だと。 しかし一方で、善悪の彼岸にも、道徳はあるという。超人はそれに従うと。その道徳とは、高貴さと誠実さ、友愛などだ。 これは矛盾なのだろうか? 私はそうとは考えない。 前者の道…