masuse's blog

エッセイなどを書いております。

[エッセイ]親を赦すということ

 親を赦すということが、イコール、自身のシャドウの受容になる、ということがある。

 シャドウとは、ユングの用語で、抑圧された自身の自我の側面のことをいう。

 たとえば、子ども時代に、父親の暴力を憎んだとし、それを赦せなかったとする。そして、「自分は、そういうふうにはならない」と心に決め、実際に、そのような生き方をしたとする。

 そうなれば、自身のなかの、暴力的な側面を憎むことになる。その側面は抑圧される。

 一方で、母親の性に対する奔放さを憎んだとし、それを赦せなかったとする。やはり、「自分は、そうはならない」と考え、実際にそのように生きたとする。

 そうなればやはり、自身のなかの、性的な側面を憎むことになり、その側面は抑圧されることになる。

 したがって、自分が憎む、親の人格の側面を赦すことが、自身の抑圧された側面の受容ともなる。

 自分のなかで、何が抑圧されているのかがわからないのであれば、自分の両親の人格の、どの面を憎んでいるのかを思い返してみればいいかもしれない。

 一応、付け加えておきますが、自身のその側面を受け容れることと、それに基づいた言動をとることは違うことだ。

 たとえば、自身の暴力性を受容することと、実際に暴力を振るうことは違うこと。